クライアントの急逝を10日前に知らされた時は驚きましたが、まったく寝耳に水というわけではありませんでした。2ヶ月前、彼はいつものアメリカ訪問中に体調を崩して救急病院に運ばれ、私は専門外でしたが医療通訳者として急遽駆り出されていたからです。東京でのお通夜とお葬式への出席を決めたことを彼のアメリカでのビジネスパートナーの一人に知らせると、その彼も同行するとの意思を伝えてくれました。私はお通夜とお葬式にまつわる様々な作法を彼に教えることを約束しました。 

しかし私は簡単に大風呂敷を広げてしまったことに気が付きました。私自身知らないことが随分あったからです。アメリカを出発する前に慌てて香典袋や数珠などをAmazonジャパンで購入して、日本で滞在予定のホテルに配達してもらうよう手配しました。東京に着いてから黒ではなく薄墨で書くペンが必要であることに気づいて焦りましたが、なんと普通のコンビニで購入可能なことを知り、ほっとしました。喪服として黒のワンピースを2着用意して行きましたが、両方とも膝が見える丈で少々短過ぎたようです。警察の面通しで、日本に暫く住んでいない輩としてすぐに認識されてしまうだろうなと思ってしまいました。そんな私を見て眉をひそめる人はいませんでしたが、日本人は感情を隠すのが上手なので、もしかしたらあまり芳しく思われていなかったかも知れません。YouTubeでお焼香の仕方を勉強したので何とか格好をつけることは出来ましたが、形式ばかり気にしていたため故人に心からお祈りすることが出来なかったような気がします。  

翌日のお葬式は私にとってかなりショックでした。遠いアメリカからやって来たとのことで我々二人は家族や親戚と同じような扱いを受けました。棺に花を添えた後、火葬場までついて行き、お坊さんがお経をあげる中、炉に棺が入って行くのを目の当たりにしました。その後、控え室に戻りお茶をいただきましたが、しばらくして館内呼び出しがあり火葬場に向かうと、収骨が始まりました。私は同行したアメリカ人と一緒にお骨を拾いました。彼はかなり動揺していたようですが、何とか上手く箸を使うことが出来ました。この間、故人の喉仏を見せて頂き、親戚の方々が「なんて綺麗な喉仏でしょう」などと言っているのを聞いて不思議な気持ちになりました。その後精進落としをいただきましたが、お酒もお寿司もあり、精進料理とは違うことを知りました。お清めの塩をいただくのかと思いましたがそれはありませんでした。どうもこれは神道の考え方で仏教とは違うようです。神道では死を穢れと見なしますが、仏教ではそのような考え方をしないということをこの歳になって学びました。  

日本への駆け足の旅(4泊5日)の終わりにサンフランシスコ空港のラウンジでこの文章を書いています。今回の旅は、日本とアメリカの2つの文化の狭間で、そっと足元を確かめながら綱渡りをしている自分をもう一度見つめ直すきっかけになりました。

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