2009年8月22日 自己紹介ーなぜ私は
私が海外、というよりは外国に暮らす人々を知りたいと思ったのは、かなり幼い10歳ぐらいの時です。
ある月の美しい夜、自宅の庭で月を眺めていて、この美しい月を今、この瞬間に、地球の異なった場所から見ている人々がいる、それらの人々は、その月の下で、どのように暮らしているのだろうか?どのように感じているのだろうか?その人々の生活について知りたい、との思いが突き上げてきました。その頃の私はとても幼かったので、論理的ではなかったのですが、その思いだけはずっと人生の中で引き継がれました。私は航空会社に入り、海外に行く機会や外国人と接する機会を楽しみました。私が働いた航空会社は韓国の会社でしたので、上司のほとんどが韓国人で、韓国に大きな関心を持ちました。その中で夫の最初の赴任先が韓国ソウルになり、私は子供2名をつれてソウルで生活を始めました。
私にとって韓国は、最も親しんだ外国だったにもかかわらず、生活してみると、自分が知らなかったことが余りに多いことに驚かされました。当時の韓国は軍事政権で、生活情報は日本にはほとんど入っていませんでしたし、航空会社の一員として接していた韓国は、ごく恵まれた一面でしか無かったのです。日常生活で、カルチャーショックを受けましたし、同時に韓国の文化的豊穣さや、独自の美意識を多くの方々に伝えたいという思いが強く、帰国してから一気に「ワンダーランド・ソウル」を書き上げました。当時はまだ韓国人の生活について書かれた本がなかったので、当時の出版界に大きな波紋を呼びました。それから私はライターとしての道を歩むことになり、他に2冊の韓国紹介本を書きました。
そして夫の転勤地がベルギーのブリュッセルに決定しました。私は学生時代に多くの時間を使ってフランス文学とフランス語を学びましたが、それを使う機会が日本では無かったので、フランス語圏のベルギーに暮らすことは大きな喜びでした。しかし、到着すると同時に、フランス語圏のコミュニケーションのスタイルが、私が暮らした日本や韓国とまったく違うことに気づきました。「違う」と気づきましたが、どうやれば良いのか?ということまで理解できるようになるには、苦い経験と長い年月が必要でした。そして、実際、ヨーロッパ人の価値観やコミュニケーション方法に思い至った頃には、帰国の時期が来ていました。「これからヨーロッパの中で、どうしたら良い人間関係が築けるか?真に生活を楽しむにはどうすれば良いのか?がやっとつかめる頃になって、帰国しなくてはいけないなんて。もっと早くわかっていれば」と非常に残念な思いでした。ヨーロッパから帰国して、しばらくはまた日本で書く仕事に戻りました。毎日新聞で海外の生活と文化について、1年間、、コラムを書く仕事や、もっと深く韓国やヨーロッパの政治、文化、経済について分析して書く場所を得ることが出来ました。
海外で暮らしていると、日本語の書く能力が落ちます。特に本語の美的なポイントである”あいまいな表現”がすごく劣ってきます。そうすると日本語そのものの良さが駆使できなくなります。日本人でも、海外生活の長い作家などの文章は、細部まで文章化されて理解しやすいのですが、日本語としてはややしつこい印象を受けます。伝えたいことを細部まで明確化し、読み手に全ての情報を渡そうとする心栄えが文章に出てくるのです。反面、日本の私小説の書き手の文章は、微妙な心の動きを、あいまいな言葉で表現したり、全部を書かないことで読み手に想像をまかせる方法が巧みだというのはとても面白い発見でした。
その後、私はアメリカのニューヨークで暮らし、Rochelle Koppに出会いました。私自身が関心を持っていた分野で、素晴らしい活躍をしている姿に接して「目から鱗」とはこのことです。その後、現在のジャパン インターカルチュラル コンサルティングの日本代表の仕事を始めるまでは、長い時間はかかりませんでした。今は仕事を通して、海外の人々に理解されると同時に、日本人の良さを伸ばしていくことのできる方法を皆様に提供したいと思っています。